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圭子には奇妙な記憶がある。それはもしかしたら、夢かもしれない。いや、たぶん夢なのだ。しかし夢であったとしても、記憶には違いない。
そのときの自分は子どもだったのか成人していたのか、その辺りは曖昧だが、確かなのは実家の近くを歩いていたことだ。背後には踏み切りがあり、向こう側から線路を超えて自転車に乗った老人が近づいてきた。
今にも転びそうなほどの、おぼつかない蛇行運転。片手に大きな黒い蝙蝠傘をさしていたのもあるが、痩せこけた老人は泥酔していた。
ときおりペダルから足が外れ、地面を蹴りながらも前に進もうする。最初、目の端に老人を捉えたときは、こんな酔っ払って自転車に乗って大丈夫なのか、怖いような迷惑なような、どこか痛ましいような気になったのも記憶している。
だが老人の顔を見て、息を吞んだ。祖父だった。祖父はまるで圭子に気づいてないようで、声もかけられず、圭子は見なかったふり、気づかなかったふりで家路を急いだ。
その後、家で会った祖父がどんなだったか、こちらは一切の記憶がない。
それからもう一つ、祖父にまつわる生々しい記憶がある。祖父の葬儀を終えた後の座敷に親族が集まり、深刻な話し合い、いや、家族会議をしている。彼らはみんな黒い影法師ではなく、ちゃんと色も付いているし、個々の姿や顔立ちもわかる。
けれど、誰が誰なのかよくわからない。圭子とどのような関係性なのか、誰一人としてわからないのだ。いずれにせよ、険悪な雰囲気だった。殴り合いまではいかないが、声を荒げる人、故人を偲んでではなく泣いている人もいた。
祖父がかなりの借金をしていたのが、死後に発覚したのだ。誰が肩代わりするといった問題もだが、いったい祖父がなぜそんな借金をしていたのか、何に使ったのかもわからないというのも、つましく生きて来た者ばかりの遺族を混乱させていた。
「じいちゃんは賭け事もせんかったし、金のかかる趣味も女遊びもなかったで」
「酒は好きじゃったが、家での晩酌だけじゃ。外で飲んどるなぞ、見たこともねえぞ」
圭子は親族が集まる座敷の隣の部屋にいて、襖の陰から諍いを覗き見しているだけだったが、話したいような黙っていなければならないような葛藤をしていた。
あの日見た、奇妙な祖父の振る舞い。あれと借金は、結び着くのではないか。もしや女のいる飲み屋に通い詰め、そのために借金していたのではないか。
結局、祖父の借金は子ども達が分担したか、その後の話は聞かない間に月日は流れた。
圭子は特に家庭にも素行にも問題はなかったが、地元の高校を出ても定職に就かずバイトを転々とし、流されるままに結婚と離婚を繰り返した。いつの間にかかなりの借金を負うようになり、夜逃げして故郷を遠く離れると、家族とも絶縁状態になっていた。
気がつけば関東の田舎町のアパートに一人暮らしとなり、五十も半ばだ。激安が売りの風俗店に勤めたり、細々と短期のパートもやったが、先月からどうにも体の具合が悪い。
明らかに、新型肺炎に罹患している。しんどくて、仕事どころか外出もできない。乱雑な四畳半の薄い湿った布団に横たわっていると、故郷の子ども時代の思い出や、何人かの男達との結婚生活などは、あれは本当に自分の記憶なのかと疑わしくなってくる。
すべて、夢なのではないか。その記憶はみな、テレビで見たドラマ、もしくは他人に聞いた話の断片で、自分の本当の過去はその中に一つもないのではないか。
ただ異様に鮮明なのが、祖父にまつわる二つの記憶なのだった。それ以外の祖父との記憶は、無いに等しい。あれは本当に、自分の本当の祖父なのか。
混濁する記憶の中から、何か浮かび上がる。田舎町の店にいた頃、貧しい孤独な老人をお祖父ちゃんみたいと甘えてだまし、かなり貢がせた。ふらつきながら帰っていく後ろ姿に、線路で転んで死ねば楽になれるのに、などと舌を出したことはなかったか。
「わしゃ、こねぇな借金がばれたら、葬式も出してもらえんかもしれん」
彼の葬式後に家族会議が開かれるのを想像し、それが記憶として刻まれたのではないか。
なぜ、祖父だなどと思い込んだのか。自分は本当は誰。本物の記憶は、どれとどれ。
……アパートの一室で腐敗した遺体となって発見された中年女性は、圭子というのも偽名であったため、身元不明として処理された。前歴、経歴、まったくの不明。なぜか枕元には、黒い古びた蝙蝠傘があった。
【岩井志麻子先生のプロフィール】
- 1964年12月5日、岡山県生まれ。1982年に第3回小説ジュニア短編小説新人賞佳作入賞。
- 1999年『ぼっけえ、きょうてえ』が日本ホラー小説大賞を受賞し、翌年には山本周五郎賞を受賞。2020年現在、作家のほかタレントとしても活躍するマルチプレーヤーに。夕やけ大衆編集とは長年の飲み仲間でもある。
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