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キャッチアップ
籍は入れてなかったが、奈々は克史と夫婦だったと思っている。四十で出会い、五十で別れた。出会ったのも別れたのも、夏だった。汗ばむ肌の質感と匂いが、好みだった。まさに肌が合うという感じで、十年のうち九年は抱き合っていた気がする。
籍を入れなかったのは、二人とも若い頃に夜逃げしていて、戸籍も住民票もそのままにしてあるからだ。二人とも、そのようなものが無くてもいい仕事を転々としていた。
克史は、風俗店の客だった。二度目に来店して奈々を指名してくれたとき、
「指名してくれたんはあんたじゃけど、うちもあんたを選んだんよ」
お世辞やサービスではなく本心を、故郷の言葉で囁いてしまった。その次の指名を受けたとき、お金は要らんから外で会うて、と奈々が誘った。
その夜から、奈々は克史の部屋に居ついてしまった。寂れた商店街の外れにある安アパートは訳ありの住人ばかりで、二人は永遠にこの薄暗い愛の巣にいられると信じた。
まさか克史が新型肺炎に罹り、あっという間に重症化し、意識が戻らぬまま死んでしまうとは。奈々はあまりの別れのあっけなさに、涙も出なかった。
しかし入院や検査、そして死亡届や埋葬のための書類が必要となり、克史がわりと長く勤めた建設会社に問い合わせ、提出していた書類から本籍地と本名を知った。
克史という名前は本当だったが、姓が違っていた。そして南国の出だといっていたのに故郷は北国で、天涯孤独ではなく母親が存命だった。
そういう奈々は、姓も名前も偽名だ。克史にも打ち明けなかったが、父は最初から不明、母は何度も刑務所に入ってついに獄死した。父親違いの兄弟に強姦され、姉に売られ、妹に借金を押し付けられ、二十歳になる前にすべてから逃げ出した。
克史はまったく奈々の過去を詮索しなかったし、自分のことも語らなかった。自分達に過去はなく、現在と未来だけがあればいいのだといっていた。
おそらく、似たような環境にあったのだと想像した。もしかしたら、指名手配からの逃亡といった線も考えられたが、そんなことはどうでもよかった。
葬儀もなく火葬場で奈々だけが克史を見送った後、せめて遺骨は故郷に戻してあげようと決めた。克史の母親にも、会ってみたかった。そして克史の過去を聞きたかった。そのとき初めて自分は、妻だった女としての涙を流すだろう。
引き続き、夫婦として暮らしたアパートにも住めることになった。仕事を選ばなければ、ひっそり一人で生きていける。克史の姓を名乗り、死後も夫婦として生きよう。
分骨した克史の骨壺を抱いて、北国の実家を訪ねた。意外なことに、広い庭のある古い立派な日本家屋で、玄関で対応してくれた克史の母も上品な美しい老婦人だった。
「あの、初めまして。私は克史さんの妻です。いえ、妻でした」
老婦人は驚いてはいたが、とうに息子については死んだ者と諦めていたのか、淡々としていた。奈々は玄関に立ったままだったが、克史の母が入ってすぐの右手にある、応接間らしき部屋のドアを開け、骨壺を静かにテーブルに置いたのはわかった。
その後で奈々を、家に上げてくれた。掃除もきちんとして乱雑さはないが、何か妙な臭いがした。克史の体臭にも、似ていた。夏なのに空調の気配はなく、なのに薄ら寒い。
「克史の部屋を、見せてあげますよ」
一階の広い座敷でも二階の洋間でもなく、それはいわゆる納戸、最も奥にある窓のない部屋だった。家具が何もない空き部屋だが、壁や床が傷だらけだった。堅い物を叩きつけた跡、刃物で刻んだ跡。奈々は、たまらない寒気を覚えた。
「あの子、大学受験に失敗してから引きこもっていたの。五年くらいして不意に、散歩してくると出て行ったきり、帰ってこなかった。もちろん、捜索願も出したわ。だけど事件性のない成人の家出って、警察もなかなか捜査まではしてくれないのね」
ここに克史がいた、それはなんだか強く感じられた。そしてもう帰りますと振り返ろうとしたとき、頭と首に重く鈍い衝撃を受けた。
気がつけば奈々は、克史がいた部屋に倒れ込んでいた。初めて、夏の日暮れの熱気を感じた。猛烈な頭痛に呻いていたら、ドアの向こうから克史の母に声をかけられた。
「あなた、克史の奥さんでしょ。夫を亡くした妻が、そのまま婚家に居続けてもおかしくはないわ。ずっとここに、あの子の代わりに閉じこもっていてもいいのよ」
【岩井志麻子先生のプロフィール】
- 1964年12月5日、岡山県生まれ。1982年に第3回小説ジュニア短編小説新人賞佳作入賞。
- 1999年『ぼっけえ、きょうてえ』が日本ホラー小説大賞を受賞し、翌年には山本周五郎賞を受賞。2020年現在、作家のほかタレントとしても活躍するマルチプレーヤーに。夕やけ大衆編集とは長年の飲み仲間でもある。
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