Catch Up
キャッチアップ
高校を出てから実に四十年、ずっと地元のスーパーで事務をしている貴代子は、ひどく真面目で身持ちの堅い女にも、かなり偏屈で愛嬌のない女とも見られていた。
子どもの頃から自身のぱっとしない家庭環境や容姿を冷静に見つめ、およそ少女らしい夢や憧れ、若い女の子っぽい理想や希望といったものを持ったことがなかった。
友達もいないし、男との交際経験もない。誰からも顧みられず、何者でもない。それを本人が積極的に欲し、そうなるよう行動しているともいえた。
「寂しいじゃろう、何が楽しゅうて生きとんじゃ」
といった周りの雑音は、本当に雑音でしかなかった。好きな本やドラマ、外食も楽しみ、貯金もあり、生活に困ることはない。老いた親を見送った後は、実家にずっと独りでいる。
殺風景な部屋は、貴代子の好みで落ち着ける。
二十代、三十代の頃は見合い話もあったが、相手の写真も釣書も見ず断り続けていたら、いつしか貴代子は結婚しない人、ではなく、結婚しなかった人、となった。
そんな貴代子が還暦間近になり、電撃的としかいいようのない出会いをしてしまった。
長年使っていた洗濯機が壊れ、近所だがいつも素通りしていた小さな家電店で、新しいのを買った。そこの店主である同世代の直己に、初めてこの男じゃ、と感じた。
風采の上がらぬ小男で、一目惚れするようなタイプではない。だが直己も、最初から貴代子に興奮していた。洗濯機を取り付けた直後、こんな求婚をしてきた。
「わしがずっと独身じゃったんは、貴代子さんを待っていたからじゃ」
そんな貴代子は幼い頃から、よく同じ夢を見ていた。現実には住んだことも行ったこともない、古びて陰鬱で貧苦が滲む建物の、二階。薄い壁に仕切られただけの部屋が、五つくらい並んでいる。貴代子であって貴代子でない女が、真ん中の部屋にいる。
畳を二枚敷けるかどうかの狭い部屋で、壁と壁の間に板を渡して簡易な寝台にし、粗末な蚊帳が吊ってある。花模様の陶器の食器、鉄の鍋、美人の絵がついた化粧水の瓶、壁に貼られた神様のお札、何かの葉っぱで編んだ団扇、どれも微妙に日本のそれではない。
いつの間にかその貧しい部屋の不安定な寝台で、誰かと抱き合っている。男だ。愛や情欲だけで抱き合っているのではなく、二人して怖さに震えている、その怖さを分かち合おうとしている、貴代子は夢を見ながら、子ども心にも感じていた。
誰かの名前を呼ぼうとしたとき、目が覚める。その男は顔や体がはっきりしないが、直己を見たときついに来た、いや、再会できたと感じたのだ。
だから、今まで親も含めて誰にもしたことがない夢の話をしてしまった。まるで、過去の恐ろしい罪の告白をするかのように。黙って聞いていた直己も、青ざめていった。
「そこは、わしも覚えがある。中学生の頃キャンプ場で家族とはぐれてな、森の中をしばらく迷うたとき、その部屋にたどり着いたんじゃ。たった一度、入り込んだだけじゃのに、異様なほど今も鮮やかに細部まで覚えとる」
彼が語る部屋の描写も、まったく貴代子の夢の中のそれと同じだった。
窓から隣の建物との間の空き地が見え、そこに原始的な洗濯場と炊事場があった。窓には鳥のいない鳥籠があり、緑色の曇った薬瓶が入れてあった、そんな細かいところまで。
「土間に申し訳程度の囲いがあって、その中に真ん中をくり抜いたコンクリ板が渡してある。その下の、ブリキのバケツが便器じゃ。溜まったら、近くの川へ捨てに行く」
二人ともあまりその手の話は信じてなかったが、もしかして二人は前世も夫婦で、異国で苦楽をともにしただけでなく、恐ろしい罪も共有しているのでは、となった。
前世の罪を現世でも隠し通すため、一緒にならなきゃならん。となったのではないか。
二人が初めて一つの布団に寝たとき、一緒にあの夢を見た。前世の二人が住んでいたと思しき、あの部屋ではない。陰鬱な青黒さに澱む、悪臭を放つ川のほとりにいた。
その川はバケツに溜める排泄物も、家庭ごみも、動物の死体も、あらゆるものを遺棄する川だ。二人は泣き泣き、その川を後にする。これでいいんだ、と囁き合いながら。
二人の息子は貴族の家で下働きをしていたが、主人を殺してしまう。親元に逃げ込んだが、いずれ捕まる。主君殺しは凌遅刑。生きたまま肉を少しずつ削ぎ落としていく、最も残虐な死刑だ。親はそんな目に遭わせるならと、息子を手にかけ川に遺棄した。
目が覚め、二人は苦く笑いあった。この歳なら、もう子どもはできんから、ええな。
【岩井志麻子先生のプロフィール】
- 1964年12月5日、岡山県生まれ。1982年に第3回小説ジュニア短編小説新人賞佳作入賞。
- 1999年『ぼっけえ、きょうてえ』が日本ホラー小説大賞を受賞し、翌年には山本周五郎賞を受賞。2020年現在、作家のほかタレントとしても活躍するマルチプレーヤーに。夕やけ大衆編集とは長年の飲み仲間でもある。
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