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「お母さんって、戦後すぐに生まれてんだな」
更新が迫ったマイナンバーカードを何気なく食卓に置いていたら息子に見られ、平成十年生まれの大輔は、からかうのではなく真顔でいった。
思わず故郷の訛りで、そんなことないで、と返してしまったが。沙織が生まれた昭和三十七年は、終戦から十七年後だ。しかし今現在から十七年前といえば、平成十五年。
来年、大学を出る大輔が幼稚園児だったと思えば、けっこう昔のような気もするけれど。
大輔は生まれたときからパソコンや携帯があり、遊びといえばゲーム機器だった。
沙織が子どもだった頃の昭和時代は、たいていの家が一台の電話機を家族で使い、チャンネルを回すブラウン管のテレビをやはり家族で観ていたし、子どもは野山で遊んでいた。
何より沙織は、真の貧しさを知っている。神社には手足のない傷痍軍人が座っていたし、橋の下に小屋を建てて住みつく人達もいた。電気のない家に住む級友もいた。
平成の都会の真ん中で、高級マンションに暮らす大輔には想像もつかないだろう。何より大輔は、母が田舎で極貧の幼少期や後ろ暗い少女時代を送ったことは知らない。
生まれたときから父はいなかったが、バーやカフェを経営する母は実年齢より若くてきれいで、何より豊かで、大輔は都会の何不自由ない坊ちゃんとして育った。
最初からいなかった父もだが、早くに亡くしたことにしている祖父母や、自分が生まれる前の母の半生などにも大輔は興味を持たなかった。沙織も、近郊の金持ちの家で生まれ、有名企業に勤め社内結婚してすぐ離婚した、というふうに教えてある。
西日本の田舎町で二十歳まで過ごした沙織は、そこまでの自分を封印した。都会に出てから、沙織の中では本当の人生が始まった。整形を繰り返し、偽装結婚や後妻業で何度も姓を変え、ついに名前も変えた。本名を知る人は、息子も含めて周りにはいない。
人にいえないこともたくさんやり、やや遅めの出産をした。それこそ戦前生まれの大輔の実父は妻子があり、認知と遺産はもらった。姓は、その前の夫のを名乗っている。
それよりも息子にいえないのは、生まれ育った家だ。病弱を理由に働かない父と、細々と内職や賃仕事をしていた母。歳の離れた兄は家出し、行方知れずになっていた。父の兄一家が住む母屋の隣に四畳半の離れがあり、沙織の一家はそこに間借りしていた。
父の兄一家は情も悪意もない人達で、そんな嫌な思い出もない。中学卒業を待たず沙織も家出し、近くの繁華街で早々に女を売って生きるようになった。
気がつけば、二十歳になっていた。地元にも居づらくなり、もっと都会に出るつもりで、ふと実家が気になり戻ってみれば。跡形もなく、離れは取り壊されていた。母屋に父の兄一家はいるようだったが、とても顔を出して親の消息は聞けない。
死んだんじゃろうか。つぶやき、新幹線の中で泣こうとしたが、流れていく窓外の貧し気な風景は、沙織の目も唇も心も乾かしていった。
そうして都会の華やかな女になってからできた息子は、小学校から私立に通い、大学で演劇に夢中になって友達と劇団まで立ち上げた。ちゃんと就職してよ、と心配しながらも、自分の子がとことん都会の坊ちゃんになっていることに達成感もある。
最初から、息子は都会の言葉を話す。あの陰鬱な田舎の言葉は、一つも知らない。
そうしてどうにか就職が決まり、息子は卒業公演を打つこととなった。小さな劇場を借り、沙織も招待してくれた。息子の劇は、これまでにも何度か見たことはあった。なんだか難解で理屈っぽかったが、そういう劇にも理解があるふりをした。
──真っ暗だった舞台に暗い照明がついたとき、最前列の沙織は戦慄した。昭和の乱雑な貧しい四畳半が再現され、貧困層のくたびれた夫婦に扮した学生が、卓袱台に向かい合っている。夫の方は、大輔だ。こうして見れば、沙織の父にもよく似ている。
卓袱台には死者に供える、山盛りご飯の茶碗。箸が真っ直ぐ、突き刺してある。
「和子は死んだんじゃあ。わしらも死んだんじゃあ」
いきなり隠し通している本名を、しかも故郷の訛りで息子にいわれ、沙織は固まった。
妻役の方が、箸を抜いてご飯を貪り始める。その姿を、大輔が冷ややかに見る。
「さすがに、白米だけでごちそう、とはいかんじゃろうが。昭和の貧しい泥の中から這い出てきた和子は、何を食うても御馳走とはいわず、何を食うても足りんというか」
大輔は、実は母の過去を探っていたのか。客席の沙織と目を合わせ、微かに笑った。
【岩井志麻子先生のプロフィール】
- 1964年12月5日、岡山県生まれ。1982年に第3回小説ジュニア短編小説新人賞佳作入賞。
- 1999年『ぼっけえ、きょうてえ』が日本ホラー小説大賞を受賞し、翌年には山本周五郎賞を受賞。2020年現在、作家のほかタレントとしても活躍するマルチプレーヤーに。夕やけ大衆編集とは長年の飲み仲間でもある。
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