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親は物心つく前からいなかったので、恋しいとはあまり感じなかった。会いたくても、ともに死んでいれば会えない。和生が育ったのは、母方の祖父母宅だった。
祖父母は愛情を注いでくれ、病死したという母については思い出話を語り、写真も見せてくれたが、父については口を閉ざした。古い写真からも、父は見事に削られていた。
「和生のお父ちゃんか。わしらには他人じゃから、よう知らん」
といった素っ気ない答えが返るだけで、父の係累とも一切の関係を絶っていた。
そんな和生は、子どもの頃からときおり奇妙な夢を見ていた。写真でしか知らない母に似ている気もする女が現れ、現実の自宅とは違う、しかし自宅である洋館に連れていかれる。あそこだけは入ってはいけんのよ、と一つの部屋を指して、ささやかれる。
開けたいが、怖いものがいる予感と、入ったら出て来られなくなる恐れでとどまる。
女の声も、聞いたことがあるような、ないような。女は和生の名前を呼ぶこともなく、「ええ家じゃろ。私の夢が詰まっとるんよ。壁紙から蛇口まで、こだわったんよ」
と家のことばかりいう。祖父母には、その夢の話をするのもなんだか躊躇われた。
ともあれ和生は大人しい良い子として地元の大学に進み、地元の堅実な企業に就職した。
祖父母は安心しきったか、相次いで亡くなった。母の秘密は、ついに語らずに。
和生は、広大な家に一人となった。成人しても、あの女はときおり現れた。夢は更新されない。女は少しも老いず、夢の家も変わりなく、いつまでもあの部屋には入れない。
和生は現実の女達に興味がないわけではなかったが、他人全般に関心が薄かった。友達がいない、恋人がいない、それは寂しいことでも劣等感を抱くことでもなかった。犬猫は見るだけなら可愛いが、飼おうとは思わない。それと同じことなのだった。
そんな平穏な日々からこぼれ落ちてしまったのがいつ、何でとなると、わかりやすいきっかけとしては、会社の女子更衣室にいるのを見つかったこととなる。入って来た女子社員と鉢合わせして小さく悲鳴を上げられ、和生はもじもじしながらこう答えた。
「いつも夢に出て来る開かずの間のドアに、この更衣室のドアが似とると気づいて。開けたら、夢の秘密がわかるかなぁと思うた」
こんな言い訳が通るはずもなく、瞬く間に会社中に「猥褻目的で女子更衣室に忍び込んでいた」と知れ渡り、居づらくなって退職した。
引きこもって昼夜の区別がなくなり、ゴミが堆積していっても、夢だけは変わりない。
そうして気がつけば家は人手に渡り、各地と職を転々とし、近県の小さな町の老朽化したアパートに流れ着いていた。現実の部屋のドアは薄く、玄関とトイレにしかない。
たまに軽作業のバイトに出て、たまにあの夢を見る。ある作業場で、本当の過去だけは互いに語らないが訛りが同じ同僚と雑談していて、「若いとき地元で、旦那が嫁さん殺した事件があったんじゃ」
という話を聞かされた。一回りくらい上の彼によると、それはこんな事件だった。
夫は裕福な妻の親から、将来のために土地を買えと大金をもらったが、女遊びや賭博に使い果たしてしまった。しかし妻には、土地を買ったと嘘をついた。息子も生まれ、この子のためにも新居を建てようと妻がいい出した。夢のような洋館を、と。
あなたが買っておいた土地は高騰しているから、それを売ろうと妻はいう。夫が本当のことをいい出せないまま、妻は新居の準備を着々と進めていった。妻の希望通りの設計書も見積書もできあがり、ついに新居の工事が着手される日も決まった。
明日は仮住まいのアパートにいったん引っ越すという日、ついに夫は妻を殺してしまう。子どものいる前で。その子どもは、母方の祖父母に引き取られたという。
もしや、その子は自分ではないのか。夢に出てくる女は母で、夢の家はまさに母が夢見た家だったのではないか。その夜、夢に母が出てきた。そして初めて、ドアが開いた。
翌日、突然死している和生が隣人に発見された。玄関ドアを開け放し、ドアにもたれかかるように座りこんでいた。外で具合が悪くなり、なんとか家に入りたかったが、ドアを開けたところで力尽きたか、といわれた。
家から助けを求めて外に出ようとし、ドアを開けたところで力尽きた、とも見えた。
発見した人は当初、隣に女がいたといったが、それは驚きのあまりの錯覚だとなった。
そんな女はいなかったからだ、現実には。
【岩井志麻子先生のプロフィール】
- 1964年12月5日、岡山県生まれ。1982年に第3回小説ジュニア短編小説新人賞佳作入賞。
- 1999年『ぼっけえ、きょうてえ』が日本ホラー小説大賞を受賞し、翌年には山本周五郎賞を受賞。2020年現在、作家のほかタレントとしても活躍するマルチプレーヤーに。夕やけ大衆編集とは長年の飲み仲間でもある。
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