黒になる直前の、濃すぎる青い空。書き割りめいて静かに、なだらかに続く山脈。稲穂の波打つ田んぼ。通学にだけでなく、買い物にも遊びに行くのにも乗っていた自転車。白いブラウス、紺色のベストとスカート。可憐な花が咲く道端。

　すべてがなつかしく美しい、もう四十年も前の景色。なのにその景色とそこにいた中学生の自分は、後に悪夢の泥に沈む。

　麻衣子は帰り道で待ち伏せされ、不良の上級生に性的暴行を受けた。すべて乱暴だったのに、終わった後に変な甘い囁きをした。それが一番、おぞましかった。

　「えかったで。おめぇ、可愛いで」

　昭和の田舎町の、純朴な女子中学生。親には、いえなかった。親が驚き怒り、泣くのはつらい。一人で警察に行くなど、自分が犯罪者として捕まるような恐れを抱いた。

　何よりも、周りのみんなに知られるのは恥辱だった。自分は何一つ悪くない、被害者なのに。けれどそいつのことを口にするのも思い出すのも嫌だったし、とにかく小さな町で変な噂になり、興味津々で見られ、性的な噂話をされるのも怖かった。

　すべてをなかったことにして生きよう、そう決めた。

　その上級生はあまり学校に来ず、高校にも進学せずチンピラになった。麻衣子はひたすら勉強し、遠く離れた町の高校に進んだ。そこで、あいつとの縁は切れた。

　固くあのことは封印し、普通に男友達も彼氏も作った。しかし、今一つ男に深入りできない。どこかで、すべての男を怖がっている。

　だから、五十を過ぎた今も、独身のままだった。見合い話も交際の申し込みもあったが、断り続け、逃げ続けた。仕事に打ち込む言い訳のためにも、難関大学に進んだのだ。

　仕事は順調で、平穏な日々は流れていった。老親のためにたびたび故郷には戻るが、あいつが同窓生となる小学校と中学校の同窓会は出なかった。

　それでもときおり、あいつの噂は届いた。せこい窃盗を繰り返して刑務所に入っただの、そのくせ根性もないので本格的な反社会的組織には入れないだの、ろくな噂はない。

　あいつの名前が出るたび、古傷が痛んだ。幸せなのに、ときおりふっとよみがえる。カウンセリングも受けた。薬も飲んだ。だが、常にあいつとあのことが心の中に澱む。

　そんな麻衣子が先日も、母の体調がよくないというので故郷に戻った。入院することになり、待合室でたまたま隣に座った同世代の男と、なぜか話をしてしまった。

　「本州と小島を結ぶフェリーが、昔は盛んじゃったよな。わし、親がおらんなって祖父ちゃん祖母ちゃんに育てられとったんじゃけど、二人ともいろいろどうにもならんようになって、わしを海の向こうの施設に送り出すことになったんよ。

　フェリーのデッキの上で、遠ざかる故郷の灯を見ながら一人で泣くのをこらえとったら、幸せそうな同い年くらいの女の子が近づいてきて、ハンカチとお菓子をくれた。わし、それでなんとか生きていこうって気になれたんじゃ」　

　「あれっ。私も昔、親と小島へ遊びに行くのにフェリーに乗って、男の子としゃべってお菓子あげた記憶があるんよ。まさかね、そうなんかな」

　彼は身寄りもなく、失業して余命がさほど長くない、という。麻衣子は励まし、彼に新しいタオルや商品券、母に渡しそびれたお菓子などあげた。とても喜んでくれた。

　「やっぱり、あのときの女の子かな。いつか恩返ししたいで。あのときも思うたよ」

　幸い、母の病気もそう重くはなく、麻衣子は自宅に戻った。母のことでバタバタしているときは、あいつのことをしばし忘れられた。あの、もう二度と会うこともないはずの男も、心安らかに余生が送れればいいなと祈った。

　普段の日々が戻ると、またあいつを思い出すようになって苦しかったが、母のためにもしっかりしようと決めた。そして何気なくスマホを見ていたら、地元のニュースが出ていた。一瞬、息が止まった。

　あいつが、同じマンションの住人に喧嘩で刺殺されていた。地元のニュース動画を見て、再び息が止まりかけた。連行されていく犯人は、あの病院で会った男だったのだ。

　まるで私が、殺人を依頼したみたいだ。戦慄した。そこでふっと、フェリーが浮かんだ。

　あれはやっぱり、自分と彼だったのか。じゃあ彼は殺人依頼を受けたというより、恩返しをしてくれたのかもしれない。貧しげでも、目の澄んでいた男の子が浮かんだ。