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香は卒業旅行で初めて訪れたヨーロッパ某国を気に入り、ついに移住して自分の会社も持った。交際した男もいたが、結局は五十過ぎて独身だ。
そこに至るまでには様々なトラブルにも巻き込まれたが、絶望したことはなかった。何日もパンとチーズだけで過ごしたことも、暖房のない古い屋根裏部屋でコートを着たまま寝たことも、幼い頃に読んだ童話に入りこんだようで、おもしろがってもいた。
実際、その街は十七世紀くらいからあまり景色が変わってない、といわれていた。
夫や子どもがいないことを、寂しいでしょう、ましてや異国で不安でしょう、という人もいるが、実は夫みたいな存在はあった。これは誰にもいったことはないが、初めて一人で泊まった現地のホテルで、生まれて初めて幽霊を見た。
見たというより、感じたというのが正しいか。視覚にも聴覚にも訴えてこず、ただ気配だけを漂わせ、十七世紀に自殺した繊細な寂しがりの青年だと伝えてくる。彼は香に好意は持っていても何もしてこず、ただ引っ越しても必ずついてくる。
そんな香は見知らぬ異国の幽霊だけでなく、現地人にも日本の友人知人からも頼られる。
去年、コロナ禍で世界中に様々な不幸や悲劇があった。同窓生の裕子も、どん底に突き落とされた一人だ。裕子の夫は旅行会社を経営し、都心のタワマンに住んで高級車を乗り回し、娘と息子をアメリカとカナダに留学させていた。
その華麗な暮らしぶりは、SNSでさらに盛られている。学生時代から派手好きで見栄っ張りな裕子を、正直あまり好きではなかった。外国に住む女社長、そんな友達がいるのもまた自慢の一つとして、香は裕子の見栄張りアイテムに加えられていたのだ。
ところがコロナ禍で旅行業界は軒並み大打撃を受け、裕子の夫の会社も例外とはならなかった。別の同窓生からそんな噂は聞いていたが、裕子本人は見栄を張り続けていた。
そして裕子と夫は、あっけなく心中してしまう。子どもを二人、外国に放置したまま。
カナダの息子はすぐに連絡がつき、帰国できた。息子はけなげに、自分は長男だからしっかりしなければならないと、双方の祖父母を慰めているという。
ところがアメリカの娘は、連絡がつかない。仕方なく、葬儀も片付けもみな娘が不在のまま済ませたそうだ。しばらくして唐突に、香は裕子の親から連絡をもらった。
「すまんが一緒に、孫娘のおる国に行ってくれんじゃろうか」
外国に行ったことがない田舎町の老親は、娘と友達であり、各国に友人知人がいて外国語も堪能な香を頼ってきたのだった。朴訥な哀願に、香ももらい泣きして承諾した。
香は、裕子の老親とアメリカに渡った。まずは娘の大学を訪ねたが、授業料を払えず除籍となり、寮も出ていた。裕子の娘の更新が滞ったSNSを探し当て、現地の親しかった友達を訪ねて行った。そこで知ったのは、老いた祖父母には残酷で悲惨な話だった。
裕子の娘は酒と薬に溺れ、悪い情夫に体を売らされていた。しかも娘が転落したのはコロナが流行る前からで、裕子はこれも親や周りにはひた隠しにしていたようだ。
男は不法滞在の外国人で、現在の所在は不明。娘が一緒かどうかも、わからなかった。
──あれから一か月。裕子の娘は依然として行方不明だが、香は裕子の老親とはときおり連絡を取り合っている。老親は、交互にこんなことをいうようになった。
「孫娘も、死んどるかもしれんなぁ」
「夢に出てくる裕子と孫の色合いや雰囲気がそっくりで、同じ場所におると感じるわ」
「孫娘もあきらめた今じゃからいうけど、裕子は香さんをあまり好きではなかったようじゃ。元々お嬢様で、異国での貧乏すら楽しんどる様子に、劣等感を刺激されとった。うちらも裕子の旦那と同じく、会社経営にしくじっとりましてな。いろんな援助を受けて娘は大学にまでやったけど、裕子は生涯、貧乏を憎み続けた。というより貧乏人と、元からの金持ちを。貧乏人に戻ることは、死ぬよりつらかったんじゃろ」
「それに旦那さんは、筋の悪い所から借金しとったようで。地の果てまで追われて嬲り殺されるより、それこそコロナ感染より、まだましと思える楽に死ねる方法を選んだ。というより、選ばざるを得んかったのかもしれんな」
香もこの頃、家にいる幽霊がふっと、見えかけるときがある。何度も危機は潜り抜けたが、会社経営に行き詰っているのは香も同じだ。若いときは未来への希望と体力でがんばれたが、この歳で貧乏に向かうのはつらい。ふと、彼のいる世界に行きたくもなる。
【岩井志麻子先生のプロフィール】
- 1964年12月5日、岡山県生まれ。1982年に第3回小説ジュニア短編小説新人賞佳作入賞。
- 1999年『ぼっけえ、きょうてえ』が日本ホラー小説大賞を受賞し、翌年には山本周五郎賞を受賞。2020年現在、作家のほかタレントとしても活躍するマルチプレーヤーに。夕やけ大衆編集とは長年の飲み仲間でもある。
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